ひらの園の歴史
明治時代からつながる、ひらの園
「茶」は中国では2000年以上前から、日本ではおよそ1200年前から愛用されていたと言われており、その昔宮廷で使用された「茶」は平安時代の書物にも登場しています。
そこから、ひらの園の地元(現 静岡県掛川市上内田地域)で産業として創始したのは明治初年の頃です。
明治5年 | 村の戸長であった源四郎は宇治の茶に魅せられ、茶業への感心は深く、お茶が国家的産業であることを確信し、自己の山林一町歩余りを開墾して茶樹栽培を始める。 また製造の技術である手揉み製法も修得し村民を指導奨励。 |
明治16年 | 源四郎の息子の「小林太三郎」は「上内田製茶共同販売益集社」を創立し、再製から販売まで直接、横浜の貿易商「大谷嘉兵衛」と取引の大事業を完成させ地域茶業の礎を築く。 |
明治後半 大正初期 |
小林親子の指導の元、官有地を三畝(100坪ほど)ずつ無償で村民に払い下げ、茶樹栽培の拡張を計る事業が村内で展開される。その中の一人がひらの園初代園主である『五作』であった。 これがひらの園の茶栽培の始まりとなる。 |
明治28年 | 妻『はる』を迎え入れ分家し、現在地に住居を構える。これにより、現在地での「ひらの園」の歴史が始まる。 |
ひらの園の創業から
上内田地域は平坦地が少なく米作りに不適な為、傾斜地が利用できる茶栽培に村民挙げて取り組みました。集団開墾なども明治の時代から行なわれ規模拡大によって農家経済を救って来たのでした。
村のお寺「龍登院」は地域の学校であり、話し合いや研修の場所であり、村民のよりどころでした。
そのお寺の一角に、現在でもわらぶき屋根の茶製造研修所後が残る建物が存在します。二つのホイロ(お茶の手揉みをする時に使う道具)が置かれて村民に製法を伝授したと言い伝えられている建物です。
大正時代 | ひらの園初代『五作』、二代目『松五郎』は手揉み技術を習得。 |
昭和時代 | 製茶機械の普及と共に手作業から機械製造に切り替わって行く。 当時農協理事をしていた二代目『松五郎』は将来を見据え木造製茶工場を自宅横に完成させる。 高林式製茶機械を導入して手揉み製法から機械製法へと移り変わっていく。 お茶の新芽の収穫作業も「プチプチ」と心地よい音がする手摘み方式から「チョキチョキ」と鋏の音がする摘採鋏方式へと変化。 摘採、製造共に機械音がする機械化生産時代の幕開けとなる。 機械の動力源は電気だったが、熱源はマキや石炭、炭でまかなっていた。 |
昭和27年 | 二人用動力摘採機が普及し、当時としては画期的な大量生産の時代に入る。 小さなガソリンで動くエンジンが開発され、茶葉が自動鋏で刈り取られるようになる。 日本列島改造論の波の中、地域内では大規模に造成された茶園が次々と誕生し茶園面積も一段と拡大した。 それに伴い製茶機械も大型化して近隣地域では大規模共同工場が次々に誕生。 しかしひらの園では単一農園の自園自製(個人形態)の道を選択した。 |
昭和60年 | 鉄骨平屋建て製茶工場の建設に踏み切る。当時としては最新のカワサキ機工製茶機械を導入し茶の品質、生産量共に格段の進歩をした。 |
平成12年 | 乗用型摘採機を導入。スピード化や重労働からの脱却の時代に入る。 従来から続いていた「かまぼこ型茶園」から、「水平型茶園」に茶畑も姿を変え、さらなる大規模経営形態に移り変わって行く。 |
五代目の就農
現在、乗用型防除機や乗用型管理機なども導入し、お茶づくりは格段の進歩を遂げてきました。しかし一方では何か大切なものを忘れてしまっているような思いもありました。自然と向き合い、自然に生かされ、育て上げるお茶作りの基本。
その基本に立ち戻り、先人からの知恵と最先端技術を融合させ「もう一度飲んでみたい!」と思われるようなお茶作りに挑戦してみたいと思うようになりました。
平成17年(2022年)から、自然仕立の茶園に挑戦。日々の管理も摘採も機械が使えない為、効率面では100年前に戻りましたが、人が手を加えないので茶の樹が本来の姿に戻り、葉も茎も通常よりも大きく力強くなり、光合成の効率も上がります。その内に秘めた自然の持つ力を最大限に活かす環境が整いました。
しかしお茶摘みさんの高齢化や人手不足、高級茶の販売低下などのため、令和元年(2019年)に自然仕立てでの栽培を最後に。機械仕立ての畑に変更しました。
平成22年 | 東京青山の「ファーマーズマーケット@UNU」への出店開始。 毎年冬場の11月~3月までの5ヶ月間、出店。 |
東京青山のファーマーズマーケットに出店を始めたところ、たくさんの方の支えがあり、農閑期の週末だけ、静岡の田舎の茶農家が東京の青山にお店を持つ事ができるようになりました。
また今ではたくさんのお客様やひらの園を支えて下さる多くの方々との縁をつないでくれる場所に育ち、ひらの園にとってなくてはならない場所となりました。
2020年からはイチゴ栽培も開始。農業の多角化を目指し、お茶づくりを続けていける環境を模索しています。